冥土の旅の一里塚

11月8日で75歳になった。後期高齢者ってヤツよ。
後期高齢者って言葉はけしからんという声があったけど、私は解りやすくていいと思う。じゃ中期や前期があるのかっていうと、とんと聞かないけどね。要するに、もういつ死んでもおかしくない齢になったよってことでしょ。

ところで「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は、一休禅師の作と言われている狂歌だけど、言い得て妙よね。ほら、昔は正月を迎えるたびに齢を数えていたから「あらら、また齢取っちゃったよ。そろそろ冥土への旅支度かなあ」と門松を眺めて思うわけだ。若いうちはめでたいだけだったけど、老いてくるにつれてフクザツという意味なんでしょうね。ただ一休さんの歌から私は彼の死への恐れは感じないけれど。

現代は数え年なんて言わなくなったから、さしずめ誕生日がその一里塚ってことだ。しかし、よくよく考えてみると人間は生れ落ちると同時に死というゴール目掛けて走り出すわけじゃない。いわば神に課せられたミッションで、こればかりはみんな平等。ただ、幼くして命尽きる子や夭折の定めの若者もあれば、それこそ天寿を全うしたと言われるくらい長生きする人がいるという違いだけ。いつミッションコンプリートするかは、それこそ神のみぞ知るよね。

また死に方ついても、次第に弱っていって蝋燭の灯が掻き消えるように命尽きる、老衰ってのが本来は自然なんだろうけど、なかなかそうはいかないのが今日日みたい。なにしろ日本人の2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で死亡すると言われる現代。これもまた神の采配ということなのかな。一寸先は闇というわけ。

私が誕生日を迎えるたびに一休さんの境地になったのは、そうね、60を過ぎたくらいかな。ありがたいことに大した人間でなくても、家族以外に気遣ってくれたり慕ってくれたりする若い人が周囲に現れる。こういうのが年の功ってことなのかな。

で、不思議なんだけど、そういう人たちのエナジーというか魂に触れるにつれて、死への恐れが雲散霧消していったの。今年の誕生日もしかりで、いろんな人たちがそれぞれの形で祝ってくれた。ありがたいことだと思う。あと何回こういう誕生日を迎えるのかしらね。悲観的になっているんじゃないのよ。明日の天気はどうかしら、という程度の思い。

とくに余命を宣告されない限りは、だれも自分の死期を知らないわけでしょ。本当に瀕死の状態になれば別だけど。自分がいつ死ぬか分からないって、まあありがたいことよね。だって自分に置き換えてみても三か月後に死にますよって分かったら、いろいろな片付けとか忙しい羽目になるに違いないもの。ひごろだらしない暮らしをしている私なんか、とても間に合いそうもないから焦ったあげく時間切れになるのが目に見えているわ。だから終活とやらを心掛けてはいるんだけど、どうにも生来の怠け癖は「ま、今日じゃなくてもいいか」ってことになる。やれやれ。

死といえば、夫が肺癌を患って余命半年と言われ、実際には1年半ほどもったんだけど、それはそれで辛かったと思う。ちょうどその前後の何年間、スティーブン・キングにはまって彼の著書を取り憑かれたように読み漁り、新刊が出るとすぐに買っては読んだ。ご存知のようにホラー小説なわけだけど、プロットが独特で異常なほど引き込まれる。なぜあんなにも引き込まれたのかと不思議に思っていたが、彼のどの小説にも暗喩として”死”が潜ませてあると気づいた。夫の死を強く意識する暮らしが、そこへ導いたに違いない。そこに私自身の死への恐れを知ることができる。

ことごとく読んだら気が済んだとみえ、ぱたりと止んだ。

面白いよね。いまは死恐れるに足らず、と思っているのだから。もちろん、痛かったり苦しかったりは出来ることなら避けたいわよ。でもそれも自分ではどうしようもないことなのだから、受けるしかない。そんなふうに考えられる今に助けられているのを感じる。こうして、今年の一厘塚も無事に立てることができた。じつにめでたい。

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