説得力のある料理

食道楽であったオヤジが家で毎日の食事を作っていたこと、そのオヤジが1971年(昭和46年)に料理季刊誌『四季の味』を立ち上げたこと、ふしぎな巡り合わせから専業主婦の私がオヤジの死後『四季の味』に関わって親子二代で編集長を務めたことなど・・・

まあ、こういった事情で人よりも名店といわれるプロの料理を子供の時から食べる機会が多かったように思う。まさに環境が人を作るのよね。いまは単なる年金生活の独居老人だから、華々しいシーンからは遠のいているけれど”三つ子の魂百まで”というように、プロの料理をどうしても穿った目で見てしまいがち。それはそれで、いまや無責任な立場で見られるのが、かえって面白い。

1980年代に”一億総グルメ”と呼ばれたグルメブームが起きた。いわばバブル期に咲いた仇花かしら。以来、だれもがグルメ評論家となって、庶民が足を踏み入れることなど叶わなかった一流店にも気軽に予約して行けるようになった。これはこれで結構なこと、と言いたいけれどそうとも言えない。これによって「料理店はお客によって育てられ、お客もまた料理店に育てられる」という図式が壊れたからだ。まして今日のようにインスタ映えが第一義になるようじゃ、食文化なんて滅びる一方よ。無粋にもほどがある。

料理店とお客の関係は、他のどんな関係とも同じように信頼と敬意で結ばれてしかるべき。お客は料理人の唯一無二の料理にしかるべき対価を払って食べさせていただき、料理人は素材と謙虚に向き合ってそのポテンシャルを最大に引き出す。これが相互の交流だよね。お客は節度を持った距離を保ち、料理人もきちんとお客と距離を置く。この関係のためには暗黙のルールがあって、たとえば、予約時間には遅れず早過ぎず、周りのお客様に配慮し、自分を特別扱いすることを求めない。これ案外多いのよ。俺が俺がで異常に馴れ馴れしい客。これほど野暮なことはないからね。料理人もしかりでやたら客に媚びる。人気店に多いのが興味深いわね。

前振りが長くなったけど、こんなメチャクチャな風潮では、良い料理屋が育ちにくいと憂えてしまう。誤解しないでね、私の言う良い料理屋とは必ずしも高級店のことではないから。暖簾と格式を誇る名店も玉石混淆は世の常。看板に惑わされたらお金をドブに捨てるようなものでしょ。じっさいに高価格を設定することでプレミアム感を狙う例があるからね。それをありがたがるお客もいるから、それはそれで需要と供給のバランスが取れているんだろうけど。文化としての食からは程遠いね。反対に、小さな町中華や居酒屋でも珠玉のような店に出会うことがある。また、地方へ行くと鄙には稀なというべき割烹や本格フレンチに出くわすとただ神に感謝だ。それらの共通点は、説得力。食べ手の好き嫌いを超えた領域だ。この領域は常に独善あるいは媚びという落とし穴が付き纏うからリスキーよね。そういう陥穽に落ち入ることなく孤高の姿勢を貫けるには、スキルは言うに及ばず、与えられた食材にどう対するか、つまり食材への共感と敬愛を持てるかどうかなんだと思う。言い換えれば食材とのジャムセッション。作り手にも食べ手にも、こんな楽しいことはないでしょ。だれしも霞を食べては生きていけないから、それなりの御足はいただかなきゃならないけど、文化ってのはこいう遊び心からしか育たないんじゃない?

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