デラシネとノマド part1

デラシネ 故郷喪失者
ノマド  遊牧民

ご存知のように共にフランス語だが、私にとってずっと無視できない言葉だったのよね。
とりわけデラシネは、まるで自分自身にかけた呪詛のように重くのしかかっていた。というのも、長男は逃げるように(と私には見えた)若いころバリ島へ渡り、伴侶を見つけて帰国したものの父親の死を契機に妻と二人の子を連れて再び彼の国へ赴き、その後三児をもうけて通算30年近く住み続けている。次男は次男で、やはり父親の死後一年半に及ぶバックパッカーの旅を経て、帰国後はなぜか定住の地を和歌山県に定めて移り住み、植木職人として堅実な暮らしを築き、良き伴侶と一男一女を得ての田舎暮らしである。

私はといえば、寡婦となって間もなく、つぎつぎに長男と次男が出て行ったことにさして心細さは感じなかった。もちろん寂しくないといえばウソになるが、それよりも私の元から、私には知り得ようもないモチベーションを動力にして飛び立つことをよしとしたのである。ある種の責任逃れと言えなくはないなとも思う。

それというのも、私にはかなり強い影響力があって、子供たちを少なからずその脅威に曝して来たのでは…というおぼろげな疑いが芽生えていたから。もちろん、当の私はそれが母親としての愛だと信じていたんだけど。つまり無意識なだけに暴力的ですらあったんじゃないかしら。悪気がないということほど始末の悪いものはないからね。ほら、ユングの元型の一つ、グレートマザーってヤツよ。そんなやこんなやで、彼らの行動は私からの逃避なのではという疑惑に苛まれていた。故郷を捨てたというよりも追われた?

そしてそのことは、私にとってちょっとした十字架になっていた。あくまでも軽めの罪悪感よ。軽いとはいえ、頭の周りをうるさく飛び回る蚊みたいな感じがずっと付き纏っていたわけ。というわけで、デラシネという言葉を耳にするたびに、その煩わしい蚊がチクチクと私を刺すのが常だった。

そうやって、いつしか老いていき、いくばくかの痛恨とそこそこの幸せを友として暮らす日常となっていた。ある日、日本で生まれてすぐにインドネシアへ行った孫娘が、結婚して大阪に住むことになったという朗報が!相手も孫娘と同じ父親が日本人で母親がインドネシア人という境遇。つまりハーフ同士の結婚ということになる。テーンエイジャーのころから交際して愛を育んでいたことは、フェイスブックなどで知っていたからとても嬉しいニュース。来日のときは和歌山の次男が関空まで迎えに行き、居住先の夫の父親の実家まで送ってやるとのこと。こうしてみんな祝福した!

少し経って、娘が車で新婚夫婦のところへ連れて行ってくれた。久々に会う孫娘は幸せに輝いてより美しく幸せそう。また彼女の夫が、なにかと優しく孫娘をエスコートするのを目の当たりにして、娘と共にホッと胸を撫でおろしたのだった。良かった!

彼は九州の大学を卒業しているので、日本語も達者だから安心よね。

翌日、二人を伴って和歌山の次男の元へ~。生まれたばかりの女の子に挨拶と上の男の子のやんちゃぶりを確認にね。
海南市の山奥に古い農家を買ったとは聞いていたけれど、初めての訪問にちょっとドキドキ。だが、次男の家は思ったほど山奥ではなかったし、想像していたよりボロ家でもなかった。なんというかな、そこは人が暮らすにふさわしい温もりに満ち、家のそこかしこに次男が手を入れた痕跡があった。私の希望的観測かもしれないんだけど、楽しめる程度の不便さが暮らしを彩っているように見えた。次男がもいで送ってくれる柿や、嫁さんが焼いてくれるカンパーニュの美味しさのワケが見えたのよ。

ここは次男夫婦が築いたアルカディア!
ノマドとして自分の手で切り拓いた理想郷だったんだ。
涙をこらえるのに苦労したのよ。だって、なんで泣くのか誰にも解らないだろうから「どしたの?!」と皆心配するでしょ。安堵?教えられた嬉しさ?うーん、どれも言い足りないな。すくなくとも、くだんの”デラシネの呪い”が解けた瞬間だったわ。

さて、この話はまだまだ続きがあるんだけど、また近いうちにね。
to be conntinued !!!

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